山と森への恋文(14)

十メートルほど斜面を登っただけで植生は目に見えて変わり、地下水位の影響をうけにくくなると山毛欅が優勢になって、斜面を分ける鞍部にはネズコや檜、そしてミズナラが目立ってくる。

 落葉が吹きだまり、春遅くまで雪の消えない窪みの斜面にはタニウツギ以外の木々の姿は少ないが、陽当たりがいいために数多くの山菜が群生するところでもある。

この場所を菜場と呼ぶが、この菜場を育むのがおびただしい山毛欅の腐葉土なのだ。

 

 山毛欅の葉に種と種の生活を依存しているのは山菜ばかりではない。

あらゆる森の中でもっとも豊富に存在するといわれる数百種類の菌類もまたそうである。

そして森の中ばかりではなく、渓谷に住む生き物達の食物連鎖にも山毛欅の葉は深い関わりを持っている。

水生昆虫から渓魚に、そして鳥や獣へと、やがてそれは有機質やミネラルとなって森や海へと還元される。これらの断ち切るべからざる流れの中心に…山毛欅の森はある。


 

 山毛欅が杉に置き代われば、植生はやがて滅び、杉の浅い線根と落葉のない林床では、大雨を吸い込むことも出来ず、急峻な表土を持ちこたえられなくなり、山に蓄えられていたものは、持ち出される一方となる。


  山を生産の場にすることに一概に反対するものではないが、現在の林業には哲学もなければ正しい認識もなく、あるものは有史からのかけがえのない財産を、独立採算制のもとに食い潰し略奪する、醜い姿と貧しい心だけである。
 

つづく

山と森への恋文(ⅩⅢ)

 最も沢に近いところに成育する巨木にはトチや沢グルミがあり、これらはツキノワグマの大好物だ。

日当たりの良い沢筋にはこの他に、同じくクマの好む山葡萄が沢山ぶら下がっているから要注意である。

 

もっとも、クマは人の気配をいちはやく察知して、「君子危うきに近寄らず」とばかりにさっさと退散するから、たいていの場合事なきを得る。が、中にはその餌場に強い執着を見せるものがいて、その場合は低い声で唸って威嚇してくることがある。

この唸り声に気のつかなかった人は運のなかった人で、知らずにさらに近ずくと御対面となる。

大怪我のひとつで済めば不幸中の幸いと言わねばならない。

 


  東京方面から来る釣り人の中には、なんでもないところで爆竹を鳴らす人がいるが、ヒグマの住む北海道でもあるまいに、と苦笑しながらいつも思う。


唸り声が聞こえてきたら、犬を追い払うときのようにシッシッとやれば良いのであって、それでクマは渋々逃げていくものなのである。

この方法は朝日連峰の茸とりに教わったのであるが、実に効果的な方法である。

森の中の動物は平和的で、彼等にとって人間ほど恐ろしいものはこの世に存在しないと言う説には、深く頷かせられるものがある。

 

つづく

山と森への恋文(ⅩⅡ)

立ち枯れの山毛欅にコフキサルノコシカケが生えている場合はキツツキの格好の餌場になるようだ。しかし、忙しく響いてくるあの音と、彼らが開けたと思しき沢山の穴を見聞きすることがあってもその現場を見ることはめったにない。

 

だいたいが、山毛欅の森では聞こえてくるさえずりの割に、鳥達の姿を目にすることが少ないのは、鬱蒼とした樹冠と、分厚いその重なりの中に生きもの達の姿が包み隠されているからに違いない。

             

 

   群風

   

渓谷を遡ってきた風達は
    葉脈のように分岐した
    夫々の流れの果てに立ち塞がる
        山毛欅の森に出会った

   

彼等は遠く海を見てきた
    街を越えて
    うごめく人の群れと
    林立するビルの谷間を通り過ぎた

   

モンゴルの馬の背をかすめ
    珊瑚礁のイオンを吸い込んで
      渚の波を薙ぎ倒し
      ひしめく車を追い越して
この鬱蒼たる山毛欅の森に辿り着いた

   

風がくると
    それまで黙っていた山毛欅達の
ざわめく声が聞こえてきた

   

風と山毛欅が話し始めると
    小鳥達は黙り込んだ
      川も
      岩魚も
      獣達も
      厳粛なものを聞いていた

   

みんな命達は
自分の運命の行く末を聞き漏らすまいと
        じっと息を凝らしていた

 

 

山毛欅の森は話をする。

穏やかな微風には葉を鳴らす。

嵐のときは枝も幹も呻き声を上げる。

霧、霖雨、雷雨、雨の日には色々な歌を歌っている。

晴天の穏やかな日でも、堅い幹に耳を押し当てると、毛根から葉脈までつながる命の囁きが聞こえてくる。嘘ではない。森の中でのあらゆる事象は、山毛欅達の倫理に支配されており、僕達の常識が遠く及ばない別世界なのだ。

そして山毛欅と関わっているすべての生き物は、哺乳動物から菌類の一片に至るまでその生活のほとんどを森に委ね、互いに関与しあって、森の生態系の一翼を担っている。
 

それはまるで母親とその乳房にすがりつく赤子との関係のように信頼と安らぎに満ちている。

僕達の祖先である縄紋人達の豊かな心を思う時の感慨は、深いものがある。

そして山毛欅の森に魅せられたこの僕も、そのようにありたいと思っていることは言うまでもない。

 

つづく

山と森への恋文(ⅩⅠ)

 先の、山女魚どめの滝は落差が5メートルほどあって、落ち口から滝壺にかけて、斜めに流木が橋をかけている。

遡上期の山女魚達は、この落差に向かって飽きもせずにジャンプするが、太古の昔からその試みのむくわれた事はただの一度もなく、滝上に、もし山女魚の姿を見つけたとしたら、それは僕の悪戯ということになる。

そこの山女魚は当事者の僕でさえ、ただの一度も竿を出したことがない、いわば僕の隠し山女魚なのだ。


 

 この滝のひとつ下のF2からは渓は急激に険しさを増し、狭まったゴルジュの中に断続する深い深淵は、両岸の山毛欅の葉色を溶かし込んで四季折々の変化に富んだ色合いを見せる。

断崖に立つ山毛欅の幹の狭間から渓谷を見下ろすと、淵尻に悠然と浮かぶようにとどまる山女魚達の姿が見える。

時折身をひるがえすのは流下する昆虫を捕食するためだろうか。

白銀の腹がギラリと光った。

 


  魚の腹はなぜ銀白色なのか、長い間疑問に思っていたが、ある日NHKか何かで、その答えを聞いて納得がいった。

水底から空を見れば水面が鏡色に光って見えるため、下方から襲い来る魚食魚に対しての保護色なのだそうである。

 

話が逸れたついでに、未だに解決できていない疑問がある。

それは『力まかせに木をつつくキツツキが、なぜ脳振盪を起こさないのか』というものだ。

誰か知っていたら教えてくれればありがたいのだが。

 

つづく

山と森への恋文(Ⅹ)

 色々なことを考えながら遡る僕の視界に、川幅一杯に飛沫を上げるF3が見えてきた。

  あの滝上に、僕だけの巨木の森は広がっている。

 滝を境に、あれほど恋に身をやつしていた山女魚達はぷっつりと姿を消してしまう。

 

この川を釣り上ったこともないくせに、さも釣り上ったふりをして、自分の書いた文章に、『大倉川の源流には岩魚が住む』、などとデタラメを言っている何人かの有名な釣り人を僕は知っている。

 

不思議なことにこの川には源流まで岩魚いなかったのだが、最近の漁協による埋没放流によって下流では岩魚が釣れるようになってきた。

この現象を喜ぶべきか、悲しむべきかは人によって意見が異なることだろう。

 


  最近は岩魚の領域に、山女魚を放流することの是否が、一部で問題になっている。

そのことが本来在るべき生態系を乱し、岩魚を絶滅に追いやるという意見であるが、その意見は少し短絡的すぎるのではないのだろうか。

  山女魚と岩魚の混成している川に行くとわかることなのだが、そんな川でも全川に渡って分布が平均しているわけではなく、落差があって伏流の多いところは岩魚、落差に乏しく砂利や砂の多いところは山女魚、と、上手に住み分けていることがよくわかる。

つまり、岩魚の衰退は山女魚によるものではなく、岩魚に適する環境の喪失によるものと言えるだろう。

川に砂が多くなったのである。

 

その原因は、原生林の伐採と無秩序な林道の建設、さらにそれ等と切っても切り離せない砂防ダムの乱建設によるものであることは間違いのないところである。

 

ともあれこの大倉川には、支流の横川を除いて岩魚の自然生息は認められず、それが何によるものなのか僕は知らない。(平成2年以降放流により一部に生息)。

 

つづく

山と森への恋文(Ⅸ)

林野庁の役人や林業の専門家は、森を語るときに次のように言うことがある。

「人間が手を加えてこそ健全な森は育ち、野放しにした自然林など百害あって一利もない」と。

 

この様な考えかたは、杉や檜の人工林には当てはめるかもしれないけれど、僕達が保護を望む森は、多種多様な樹種が山毛欅を中心として複相している原生林なのだ。

理念や机上の計算どおりにはいくわけがない。

 

森は極相林であっても、彼等が言うように荒れ果ててなどいず、そのようなイメージさえもない。

それどころか、死んで横たわっている山毛欅の周りには新しい命の幼木が、次の世を目指してそこここに伸び出している。

 

  どこの山であっても、源流や中腹から上には、手つかずの自然林を残しておいてほしい。

それが麓の植林地のためにも、下流に住む人々に水や豊かな心を提供したりするためにも、失われつつある未来を救うためにもベストの選択なのではないだろうか。

         

 

神になりたい

 

さて。僕達は何をしようか


  どこもかしこも 何も彼も
      すべて変えたし改造した

 

  さて。これから何をしようか

 

  海辺も川岸も
  すべて鉄と石にした


  あらゆる山には木を植えた

 

  僕達は人間なのだから
  いつも向上心をもって
      神になろうと努めてきた

 

  神になれれば
      水もいらない
      空気もいらない
      何もいらない

 

  早く
    早く神になりたい
    何も彼も失われてしまう前に
 

 

つづく

山と森への恋文(Ⅸ)

 さっきから僕は、遠い昔に死んで苔むした山毛欅の倒木に横たわっている。

辺りには木もれ日が澄みきった光のシャワーを振り撒き、森の空気は冷たく沈んで、疲れきった僕の体を優しく包み込んでいる。

 

 

          森の中で

 

  森の中では
  ひとりの人間と一匹の猿の優劣はつけ難い


  もともと猿も人も
      森の中では同じ立場なのだ

 

  人は考えることができる
  猿は本能で生きるというが
  森の中では
  猿も立派にやっているし
  与える心ももっている

 

  人は森の中で考える

 

  けれど
      生きるための本能は既に無く
  ましてや
      木から木へ跳び移ることなど

 

  生きて行けることが
      優れていることなのなら

  街を造り
  宇宙に飛び立つことなどよりも

  何も知らず
  森の中で
  在るがままに生きている彼等のほうが


  ずっと幸せだし


  ずっとずっと優れている

 

 

  足元の倒木には月夜茸が群がり生えている。

僕達が食べれば、きっと腹痛に襲われ、ひどく苦しむだろうこの茸の中にも、沢山の昆虫達が生きていることを知ったら、誰しもが驚きを隠せないことだろう。

そしてその虫達でさえも、本能だけで全く困ることなく生活し、子孫を残している。


  かたや『万物の霊長』であるはずの人間達は山のように矛盾を抱え、明日をも知れない窮地に立ち、何も彼もに気づいていながら、それでも誤りを正すことが出来ずにいるのはどうした事だろう。

 

つづく

山と森への恋文(Ⅶ)

 エンクラインの軌道敷きの後を辿って続く道が、急激に高度を上げた所に、かつてのトロッコの動力小屋が建っていて、その少し下から、道は綴れ折りに方向を変えて船形山の山頂へと伸びている。

そしてそこに、「僕だけの森」への入り口はある。


その森に辿り着くまでには長い時間と共に幾つもの困難を克服しなければならない。

が、それは同時に、何度繰り返しても飽きることがない「至福の時」でもある。

 


  僕は山毛欅の森に抱かれるとカモシカか仙人になりたいと思ってしまう。

カモシカのように自由に森を駆け回れたら。仙人のように霞を食って生きていけるのなら、何と自由で楽しい生活なのだろう。

 

この様な子供染みた発想は、観念から解放されてこそ起こり得るものだが、僕にとって山毛欅の森は、まさにそんなところなのである。

 


  話は唐突に変わるが、それはある秋の昼下がりのことであった。

標高六百メートルの等高線に沿って、気ままなトレースを描きながらミズナラ巡りをしていた時のことである。 

疲れきって腹ぺこの僕の前に、そいつは突然に姿を現した。いや、正確には僕がその猿の前に現れたと言うべきなのだが。


この山中に猿を見つけたのは始めての事である。


  その離れ猿は「ひとり」でサルナシを頬張りながら、ヨロヨロと近付く僕をじっと眺めていたのだった。

猿が食っているものが、サルナシであることは離れた所からでもすぐ分かった僕は、とにかく空腹を満たすべく、その蔦が絡まっている細いヨツズミの下に立った。

木を揺すって熟れた実を振り落とせば、一石二鳥であることはすぐ思いついたが、山毛欅の森にたったひとりいる猿が、なぜか仲間のように思えてきて、僕はその思いつきを実行することを思い止どめ、樹下に落ちているサルナシを拾いながら食べはじめた。

もとより、熟れて自然に落ちている果実は少ないもので、すぐ見当たらなくなってしまい、僕はまた木の上の猿を恨めしげに見上げることになった。

その時、僕を見下ろす猿の目に『哀れみの色が浮かんだ』ように思えたのは、気のせいだったのかもしれない。

だがしかし、余りにもタイミング良く、猿は隣の木の枝に跳び移って消えた。

 


 僕はこの時とばかりに、ヨツズミの幹を激しく揺すり立てた。緑の果実は、枯れた山毛欅の落葉の上に落ちてきて、沢山のボタボタという、音を立てた。

 

まだまだ、つづく

山と森への恋文(Ⅵ)

 もう秋の気配を漂わせた森へ通じる道は、一面に降りた朝露が僅かな光を照り返して、霜のような鈍い光沢を見せている。

蜘蛛の巣は数珠のように水を捕らえ、弓なりに垂れ下がりながらも、夥しい蜉蝣を絡ませているが、それを食べるべき主はどこにも見当たらない。

膝から下はびっしょりと濡れ、冷たさも感覚から遠ざかる。

気分はハイだ。ゆっくりと歩いていても呼吸が荒くなるのを止めることができない。

心臓が他人の物のようだ。この気持ちは恋だと思う。


 

眼下に見えてくる堰提に蓄積した土砂さえなければ、この人里に近い山毛欅と楢の二次林に囲まれた道も、悪いことはないと思う。

堰提の堪りに直接注ぎ込む流れは三本あるが、どの流れも見事な滝になっている。

昔はもっと高い落差を誇っていたが、川床の上昇した分だけ滝は貧弱になった。

 

最も下流に注ぎ込む滝の近くまでバックウォーターが後退した頃、僕はある釣り人に出会った。


  「てんから」という毛針釣りを得意とする僕は、その日、堰提の落ち込みに立ってキャストを繰り返すフライマンの背後に座り込んで、彼の見事な竿さばきを眺めていた。

僕が今まで出会ったフライマンはみんな「カッコ」だけの「下手くそ」ばかりだったが、彼の場合は違っていた。

ロッドから繰り出される糸は綺麗なループを描いてスルスルと伸びて、「てんから」ではとても届かない遠方に静かに着水すると、「出るべき所で」山女魚は微かな飛沫を上げ、・・・直後、彼のロッドは弓なりになっているのだった。


  彼は僕の目の前で三匹の山女魚を釣り上げ、ライズも一服すると座り込んで、僕と色々な話を始めた。

お互いに釣果を見せあったり情報の交換の後、彼は今からこの上に行くのだと言った。
 

夕まずめの一時しかあいつは来ない。


 あいつって。


 でかいやつなんです。


 どの位。


 丸太が浮いていた…と思いました…山女魚 だったんです。


彼は丸太と見まがうばかりの山女魚を釣るのだと言って、急な杣道をそそくさと去っていった。

 

 彼がその後その山女魚を釣り上げたかどうか僕は知らない。

また、その様な山女魚が釣れた噂も聞かないし、僕も釣ろうとはしなかった。

そしてその噂の源になった流れ込みの滝壺も、今はもう埋もれて、いや!、堰堤湖そのものが夥しい土砂に埋尽くされてしまった。 

そして、堰を越えて溢れ出た夥しい土砂は、広瀬・名取川随一の山女魚の宝庫として、長く愛された十里平の釣り場を、永久に僕たちから奪い去った。

             

 

自覚

 

  僕たちは大人になっても
      あの川を遡って遊んだ

 

  沢山の山女魚がいた
  巨大な幻を見た

 

  眠れぬ夜は
      『遡る川』の情景が
      眠り薬より良く効いた

 


  友の裏庭で


  僕の家のぬれ縁で


  他愛もない川の話


  山女魚の話


  自慢話

 

  僕達も昔の話をよく聞いた
  昔の話は良い話ばかりだった

 

  そして今・・・気がついた


   僕達も昔話を始めていることに


   僕達は、遊びに夢中になり過ぎて
   大切なことを忘れていたことに

 

つづく
 


 

山と森への恋文(Ⅴ)


間もなく渓を渡って、上空に搬出用のケーブルが引かれると、いよいよ略奪が開始される。

後は択伐も皆伐もない。

択伐とはいっても、倒れ落ちる木の巻き添えになって引き裂かれる山毛欅は数え知れない。

ブルトーザーが縦横に走り回った山の急斜面は、赤土がむき出しになり、植生が回復する前に果てしない崩壊を始める。

 


  あれは営林行為ではなく、略奪そのものだと僕は思う。

山毛欅林の略奪される様は、その略奪される過程を見たものでなければ分かるはずもない。

そしてその驚くほどの素早さと徹底した手際のよさと、ズル賢さを知らなければ山毛欅林の保護など決して成し得ない。

林道や登山道から眺めても営林署の巧妙さ故に、実態など分かるはずもなく、切り倒された惨状を見て嘆いても後の祭りなのだ。

 


            閉井川にて

  お爺さん釣れるすか

 

駄目だ
  さっぱり駄目だ
  さっぱり釣れねげんとも何もしねよりいい
  いつも釣れねのすか

 

この頃はずっと釣れねな
  昔は釣れたげんともなあ
  昔は鮎なんてなんぼでもいだ
  種なんて手網で掬ぐったもんだ

 

なんで釣れねぐなったのっしゃ

 

営林署のせいだ
  担当区つうのが出来で
  山の木ば切って杉おがらせるために
  笹ば枯らす除草剤まいだっけ
  鮎っこさっぱり来ねぐなってしまった 
  川の水がうんと少なぐなってしまった
  雨降っとすぐ濁るようになっちまった

 

 

そうなのですね。

あの夏閉井川で、朴訥としてオトリ鮎を枯れ細った流れに泳がせていたお爺さん。

川へ駆け降りて話しかけると、始めのうちこそ口数も少なかったけれど、やがて胸の奥に支えていたものを吐き出すように、それも啖々と語ってくれたのを覚えています。

貴方はあの時八十歳とおっしゃっておられたから、健在でおられればもう九十五歳になっておられるはずでしょう。

穏やかな語り口の中に込められた貴方の嘆きを僕はいつも心の中に抱いてきました。

あの出会いは、それまで森と水と魚達の関わりを慮ろうともしなっかった僕にとって衝撃的なもので、僕はその時、貴方のような年寄りになりたいと思いました。
 

 

それから僕は急速に、山へ。森へ。川へ。とのめり込んでいった。

それ等を通して見たものや、触れたもの。そして感じたものは、酵素の持つ合鍵のように、忘れかけていた僕の血と、幼少の頃の北蔵王での心満たされた日々を思い起こさせ、僕の魂は、帰るべき場所に辿り着いた。

           

 

野の花

 

桔梗は僕の心の色です
  ふしぐろせんのうの朱の色は
      僕の血の色です

 

間林の草原にひっそりと咲く女郎花は
      僕の祖父への盆花です

 

寂しい花とお思いでしょうが
      決してそうではありません

 

みんな心に熱いものを持っているのです
      熱い心で夏の終わりを飾るのです
                                     
 

何も彼もゆったりと流れていた時代には
      艶やかな花は似合いません

 

花の咲く草原の奥深く
      深い森があるのです

 

貴方に見せたい山毛欅の森があるのです
  だから僕は・・・
      今でもゆっくり歩くのです
  だから僕はいつでも満ち足りているのです
 
 

 

朝六時。まだ暗い中を、僕は身支度を整えて歩きはじめる。

 

つづく
 

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